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オーストラリアの人口の推移は、オーストラリアの連邦政府としての国家形成の歴史、特にその移民政策に基づいています。
1788年1月26日に初代総督であったイギリス人アーサー?フィリップが率いた船団が、流刑囚780人と海兵隊関係者1,200人をポート?ジャクソンに上陸させたのがオーストラリアの歴史の始まりとなります。この時、先住民アボリジニはオーストラリア大陸に25?30万人ほど居住していたと考えられていますが、彼らはイギリス王室領不法占拠者として扱われました。
1793年に最初の自由移民が到着し、その7年後の1800年にシドニーにオーストラリアで最初の税関が設置されました。1815年には、タスマニア島のホバートに移民が到着し、同島の開拓が始まります。
そして、1827年にイギリスがオーストラリアの全体統治を公式に発表し、1829年にパースを、1835年にメルボルンを植民地として開設しました。
1858年になると、シドニー、メルボルン、アデレード間の電信が開通し、ニューサウスウェールズ州やビクトリア州では無記名投票による議会の成人投票が行われました(ビクトリア州の投票は1857年)。
この頃に、オーストラリアの人口は100万人に達しています。これは、1851年にニューサウスウェールズ州で金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こり、多くの移民が押し寄せたことによります。1861年になると金鉱山で反中国人暴動運動が発生し、移民規制としてはオーストラリアの歴史上初の中国人移民の禁止措置が取られました。
1868年には最後の囚人移送船がウェスタンオーストラリア州に到着し、流刑地としての役目はこの年に終焉を迎えます。
1901年にシドニーでオーストラリア連邦制が宣言され、ここにオーストラリア連邦が誕生しました。1905年には人口が400万人に達し、同年から統計法が整備され、正式な国勢調査が行われるようになりました。
オーストラリアがイギリス以外の国と直接外交を始めたのは1940年で、対外国はアメリカ合衆国でした。1949年に国籍?市民権法の適用が開始され、人口が800万人になりました。
1955年にはキーリング諸島が、1958年にはクリスマス島がオーストラリア連邦に移管され、1959年にオーストラリア連邦の人口がついに1,000万人となりました。
1980年前後になると、大量の難民が押し寄せるようになり、特に1978年のインドシナ半島から到着したボートピープルと呼ばれる難民団を保護したころより連邦政府の難民対策に厳格化の変化が見られるようになったのと同時に、1981年には人口が1,500万人になりました。
その後も国内マーケットの活性化を目的とした移民政策は管理されつつも施行され続けており、2004年には人口2,000万人に達し、直近10年では、下記グラフの通りとなっています。
2020年の段階で、オーストラリアは先進国としては例のない28会計年度連続の経済成長を維持し続けています。
更なる移民政策により、人口増加が見込まれるオーストラリアマーケットの購買力に、国内外からの期待が寄せられていますが、2020年に発生した新型コロナウイルス禍の影響により、移民流入が停止、経済成長にも歯止めがかかりました。
2023年に入り、ワーキングホリデーや留学生などの短中期滞在者の入国が始まり、2023年中には本格的な移民の再流入が予想され、移民政策がオーストラリアにおける新型コロナウイルス禍の及ぼした経済損失からの脱却の鍵を握っていると言っても過言ではないでしょう。
2019年6月の統計によると、オーストラリアの人口は約2,500万人強で、日本の人口の約6分の1ほどとなっています。
広大な国土を持つオーストラリアなので、人口密度にすると、日本の約370人/km^2に対し、オーストラリアは約3人/km^2という驚異的な数字になります。
また、人口ピラミッドを見てみると、日本のような少子高齢化の問題は推測されません。ちなみに、オーストラリアの平均寿命は、2019年の統計で、女性85.8歳、男性82.1歳となっており、この統計も年々長寿化しています。
年代別に分析してみると、人口分布においてはミレニアル世代が多くなっていることが判ります。
これは、近年の移民政策によるもので、特に、手厚い政府の社会保障によるベビーブームも伴って増加したものと分析されています。
オーストラリア以外の出生国別にした人口統計は下記の通りとなります。
少々脱線しますが、ここで気になるのが、オーストラリア国内で使われている言語についてです。
2016年の国勢調査では、英語以外の言語を日常会話に使用する人口は、20.8%(約487.2万人)という結果が出ています。
もちろん、出生国が様々な移民によって構成されるオーストラリアでは、宗教の分布も様々になっています。
キリスト教徒が52%と全体の半数強を占めていますが、無宗教の人も約690万人(27%)あり、信仰についてはあまりレリジアウスな国ではないことが窺えます。
キリスト教の内訳では、カトリック教会が22.3%、英国国教会が13.2%となっています。
上図表は、オーストラリアに在住する日本国籍者数の統計です。
オーストラリアには、在外公館がキャンベラ、シドニー、メルボルン、ブリスベン、パースにあり、加えて、ブリスベン領事館の出張所がケアンズにあります。それぞれの管轄で在留者を管理しており、その合計が2018年10月時点で98,436人となっています。
オーストラリアは、アメリカ合衆国、中国に次いで、世界で3番目に、日本以外の国で、日本人が多く住んでいる国ということになります。
オーストラリアの人口は増加傾向にありますが、それでも約2,500万人という数字は、先進国の中では極端に少ない部類に入ります。
従って、他の先進諸国と比べると、オーストラリアには独特のマーケット事情があります。
オーストラリアの国土面積のうちの49%に当たる3億7,800ヘクタールの土地は、農用地となっています。これは、アメリカ合衆国の農地面積とほぼ同じ大きさになります。
しかしながら、耕作に使用されている土地は約2,500ヘクタール(全農用地の7%ほど)で、国土面積の3%程度に過ぎません。
それ以外の90%以上の農用地は、肉牛や羊の放牧に当てられています。そこには、耕作の管理をするだけの充分な農業人口が確保できないという深刻な事情が垣間見えます。
そして、オーストラリアは広大な国土を有するものの、人口が少ないために国内マーケットが極端に小さいため、農産物の輸出の割合が非常に高くなっています。
農産物の生産額の約80%が輸出額による値になっています。それでも多くの品目が農産物の国際価格に影響を与えるほどのシェアを占めているわけではないので、輸出額は国際市況の影響を直に受けやすいという脆さがあります。
オーストラリアは一部の精密機器などを除いて国内市場の小ささから製造業にはもともと不熱心で、輸入に頼る体質が強い国でした。
それでも、1990年代初頭までは購買力の高いオーストラリアマーケットは世界市場の中で魅力的であったため、オーストラリア政府は各国に対して一定の輸出規制を敷いていました。
当然、日本の主力産業である自動車メーカー各社は、ノックダウン方式でオーストラリアに自社工場を造り、アメリカ合衆国での成功を踏襲しようとしました。
しかしながら、オーストラリアで製造された自動車は国内市場の狭さ故、ニュージーランド、シンガポール、ブルネイ、香港、南太平洋諸国、引いては日本に輸出されるようになりました。
1990年代半ばには、オーストラリア政府は関税障壁を極端に下げる決定を下し、日産オーストラリアは1996年度にオーストラリアから撤退しました。1996年に25%に引き下げられた関税はその後15%に、さらに2005年には5%に急降下する事態に陥りました。各社はオーストラリアで車を造るよりも輸入した方が安いと見切りをつけ、次々とオーストラリアからの撤退を表明するようになりました。
そして、2014年の日豪EPA(日豪経済連携協定)、続いてのTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)により、オーストラリアの自動車産業は崩壊状態になりました。部品を輸入して車両の組み立てを行なっていたトヨタ自動車と、アメリカGM系ではあるものの唯一の自国メーカーであったホールデンは、2017年を持って生産を停止し、工場を閉鎖するに至りました。
2017年10月を持って、オーストラリアでの自動車生産の歴史に幕が閉じられました。
オーストラリアの人口が増え続ける理由には、政府が牽引する移民政策があります。
それ故に、既に国内には様々な宗教や文化が混在し、中には祖国の紛争関係を抱えたまま帰化した人々も混在しています。
顕著なのは、セルビアとクロアチア、ウクライナとロシア、中国とモンゴルなど、国際紛争を抱えた国からの移民が同じ地域で暮らし、紛争もそのまま国内問題へ移行している点です。
今日のオーストラリアでは、海外生まれか親の片方が海外生まれというオーストラリア人が40%を超えています。
彼らの祖父母世代の出来事が母国で繰り返されているとき、双方の若い世代は過去と現在の両方から責め立てられ、不安な不均衡の中で暮らしている状態にあります。
最近では、シドニーのセルビア系オーストラリア人がセルビア正教の僧侶を中心に7,000人のデモを敢行した際、クロアチア系の一部暴徒が同正教会の壁に落書きをするという事件が発生しました。
こうしたひび割れた社会を繋ぎ合わせるのが文化多元主義のオーストラリアやアメリカ合衆国のような避難国家の国是です。
都市に着眼すると、メルボルンは歴史的に民族連鎖が顕著な都市で、主流派民族集団が移民としてやって来た後、新来移民が入り込み、さらに別の新来移民が先行移民が出た後に居住するという連鎖が起こっています。これにより、街を逐われる民族が繰り返し発生しています。
特に、メルボルンのリッチモンド地区は、第二次世界大戦後はイギリス系労働者階級の居住区だったものが、1954年のイタリア移民受け入れと1966年のギリシア移民受け入れで様相が変わり、更に、1986年のベトナム難民の受け入れにより、最初から居住していたイギリス系オーストラリア人は街を離れざるを得なくなりました。
現在では、新たに建てられた高層団地にベトナム系オーストラリア人街が出来ています。ベトナム系オーストラリア人は、1971年当時に700人程度だったものが、1981年に4万3,000人、1991年には12万4,800人へと跳ね上がっています。
日本でも歯止めの効かない人口減少と少子高齢化を打破する政策のひとつとして、移民の受け入れが現実味を帯びて来ていますが、地政学的にも島国という点で類似点の多いオーストラリアの移民政策による人口増加は、考察すべき骨子に溢れています。
変容を遂げるオーストラリアの移民政策ですが、マーケット拡大の大義名分の下、今日も移民局では新たな移民受け入れの手続きが行われています。
読者の方の次回のオーストラリア旅行の際に、本稿がオーストラリアについてのご興味の片鱗になれれば幸いです。
歴史読本ワールド「オーストラリア流刑史」(1991年 新人物往来社)
日本貿易振興機構Jetro
Willam.O.Coleman "Only in Australia: The History, Politics, and Economics of Australian Exceptionalism" OUP Oxford; 1st edition (June 16, 2016)
Allan Patience "Australian Foreign Policy in Asia" Palgrave Macmillan; 1st ed. 2018 edition (24 January 2018)
Liz Allen "The Future of Australia" NewSouth Publishing (1 April 2020)
Australian Bureau Satistics
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